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シリーズ地下鉄80年-その2

東京の地下鉄は当初の計画では東京市が建設する予定でしたが、当時は関東大震災からの復興途上で、鉄道を建設するような余裕はなく、民間事業者に免許を譲渡することになりました。最初に名乗りをあげた「東京地下鉄道」が、上野-浅草間を建設、昭和2年に開通しました。
創業者は山梨県出身の早川徳次(1881-1942)で、ロンドンやパリ、ニューヨークなど地下鉄先進都市の視察を通じて地下鉄の重要性を痛感し、帰国後同郷で東武鉄道の創始者である根津嘉一郎、当時財界の最大のカリスマだった渋沢栄一の協力のもと、関東大震災の復興事業の目玉としての地下鉄建設に着手します。
しかし、東京市は地下鉄の公営主義を捨てておらず、東京地下鉄道には浅草-新橋間の免許だけしか交付せず、昭和9年に新橋まで開通後、その先は宙に浮いてしまいました。
一方、東京市には依然余裕がなく、免許は結局五島慶太が率いる「東京高速鉄道」に譲渡され、渋谷-新橋間の建設に着手。昭和13年に虎ノ門まで、翌昭和14年には新橋に到達しました。
その間、五島が東京地下鉄道の買収を目論み、それを阻止しようとする早川との壮絶な争奪戦を繰り広げます(根津と五島の師である小林一三との「代理戦争」の側面も)。株主総会が分裂するなど異常な事態にとうとう国が調停に乗り出すほどでした。早川と五島は経営から手を引くことで一応沈静化しますが、後年「強盗」と仇名される五島の「居座り」によって最終的には早川は実権のない相談役に追いやられます。
そんな最中に新橋まで開通した高速鉄道側は、地下鉄道側に乗り入れを提案しますが拒否され、仮駅を作って対抗、9ヶ月間「2つの新橋」を舞台に冷戦が続きます。昭和14年9月に相互乗り入れが実現、仮駅は廃止されましたが、地下設備を解体するのには費用がかかるのでそのまま残されました。地下鉄関連の書物によく出てくる「幻の新橋駅」がこれです。
その後戦時体制に伴う私鉄の統合で、昭和16年に東京高速鉄道・東京地下鉄道は国策会社の「帝都高速度交通営団」に統合されます。早川は失意のうちに故郷山梨に隠退。翌17年に62歳で生涯を閉じます。一方の五島は本家の東京急行をはじめ京浜電気鉄道、湘南電気鉄道(合わせて現京浜急行)、帝都電鉄、京王電鉄(合わせて現京王)、小田原急行(現小田急)を手に入れる(いわゆる「大東急」)代わりに、営団での影響力はそれほど強くなくなり、戦後、GHQによる公職追放に伴って完全に影響力を失います。
そんなこともあって「地下鉄の父」は五島ではなく早川の功績として讃えられることになり、銀座駅に銅像が建てられました。
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2007.2.5 東京地下鉄銀座駅
現在の銀座線はそんな紆余曲折を感じさせないほどの東京の大動脈になっていますが、早川対五島の激戦の歴史を踏まえて銀座線の駅を見ていくと、浅草-新橋間と新橋-渋谷間とで駅の雰囲気が微妙に違うような気がします。
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2007.2.20 東京地下鉄銀座線渋谷駅
by borituba | 2007-03-03 01:20 | てつどう