2005年 12月 19日
シリーズ:田原町駅の歌舞伎紋章-1
浅草駅は観音様の玄関口として賑わいましたが、興行街の公園六区へは一つ手前の田原町の方が近く、初詣や四万六千日などは浅草同様に賑わったものです。
その田原町駅には、地下鉄開業を記念して、当時の歌舞伎や新派の役者、大劇場、長唄や清元などの宗家の紋章が飾られました。当初は石膏製で黒く描かれていましたが、時代と共に色褪せ、汚れるにまかされていました。駅が全面的に改修されるときに撤去されることになりましたが、惜しむ声が多く、結局営団地下鉄(当時)の手により調査が行なわれ、金属製のレリーフとしてリニューアルされました。
今日からシリーズでご紹介する紋章は、昭和2年当時の役者の紋です。従って代数は全て先代、先々代になります。今全盛の中村屋=中村勘三郎の紋「角切銀杏」がないのは、先代(十七世)勘三郎はまだ若手の中村もしほ(播磨屋)で、中村屋という屋号が復活するのは1950(昭和25)年のことです。
今日は昨日の銅像にあやかって成田屋、市川團十郎の紋「三升」です。1903(明治36)年に九代目が没してから團十郎の名前は空席で、当時は名跡を預かっていた九代目の女婿の五世三升が成田屋の看板を守っていました。三升は1956(昭和31)年の没後に十代目團十郎を追贈されたため、レリーフが新調されたときに名前を十代目市川團十郎と改めています。
三升はいわゆる「中年からの役者」だったため、駅に飾られている大幹部連と肩を並べる役者ではありませんでしたが、「解脱」「嫐(うわなり)」「蛇柳」など、宗家でも絶えていた歌舞伎十八番の復活上演を試みるなどの努力が認められたことと、菊五郎(六代目)、左團次(二代目)が健在であった当時、團菊左の紋が揃っているのがいいということもあって、三升の紋が飾られることになったのです。