あなたへ…

あなたへ…

6年前にあの悪夢のようなできごとが起こるずっと以前から、この日は私にとって大事な日でした。

3月11日…あなたの誕生日。

それがこんな忌まわしい大惨事の日として人々の記憶に残る日になるなんて…私には耐えられません。

あの日、あなたはどこにいたのですか?

そして今日をどんな気持ちでむかえるのですか?

思慮深いあなたのことだから、自らの誕生日などより、多くの犠牲者に心を致して静かに過ごされるのでしょうね。

そんなあなたを思うのは辛いです。

だから、力いっぱい心を込めてあなたの誕生日をお祝いしたいと思います。私一人で。

代打満塁逆転サヨナラホームランを最後まで諦めなかった半生でしたが、ゲームセットが告げられた今、残りの人生おまけのようなもの。

でも、少しでも私の存在を必要としている人がいる限り、その人に申し訳ないのです。
だから私は生きなければなりません。

だから、せめてあなたを思い続けることだけは許してほしいのです。

多分、直接あなたに何かを伝えるようなことはないでしょう。

だから、思い続けることくらいは許してください。

そしてこれからもこの日をあなたの誕生日として祝うことを許してください。

私が生きるためのささやかな願いです。

I was born to love you.
Happy birthday only you.
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by borituba | 2017-03-11 14:46 | しんさい | Comments(0)

6年目の3・11によせて

おはようございます。
今日は東日本大震災から6年です。「もう6年」「まだ6年」…人の思いはさまざまですが、6年前の今日の恐怖とその後の惨禍を忘れてはなりません。

昨日の夜はオネゲルの誕生日ということもあって、東京大空襲と東日本大震災の両方の鎮魂と平和の祈りを込めて交響曲第2番と第3番「典礼風」と「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を聴いたことです(別途投稿しました)。

今夜は東京大空襲でほぼ全域が被災した墨田区の平和祈念・震災追悼コンサートでマーラーの交響曲第6番「悲劇的」を聴きますが、個人的には例年CDでブラームスの「ドイツ・レクィエム」(クレンペラー指揮、フィルハーモニア管)を聴いています。第2曲の「人はみな草の如く、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。」という一節が胸に沁みます。

今年はもう一つ、フランシス・プーランクがポール・エリュアールの詩をテクストとした3つの歌曲集、「こんな日、こんな夜」「燃える鏡」「爽やかさと火」を聴くことにします。エリュアールの詩は難解なシュールレアリスムの詩ですが、人の愛と死を描いた詠む抽象画のような詩章が震災と津波の惨禍の鎮魂と不思議にフィットしていると思います。

…合掌。
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by borituba | 2017-03-11 08:22 | しんさい | Comments(0)

今日から明日への二枚

今日3月10日はアルチュール・オネゲルの誕生日ですが、日本人にとっては今日3月10日と明日3月11日は忘れてはならない惨禍の日です。

フランス音楽に心寄せる者としてはオネゲルの誕生日を祝いたいところではありますが、時空を超えて多くの罪なき人々が数時間のうちに命を落とした日でもあるこの日にはとてもそのような気分にはならないのです。

オネゲルは第二次大戦でナチス・ドイツに蹂躙されたフランスで、他国への亡命をせず、「六人組」の仲間で親友だったフランシス・プーランクや指揮者シャルル・ミュンシュらと共に芸術のレジスタンス運動に身を投じて、フランス国内を転々としながら戦争の犠牲者の鎮魂と平和の祈りを込めた作品を書きました。
それらの作品はフランスの、というだけでなく、あらゆる惨禍による犠牲者の鎮魂と平和への希望を込めた普遍的な祈りの音楽であると思います。

今宵はそんな中から3つの作品を選びました。
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交響曲第2番(弦楽とトランペットのための)
交響曲第3番「典礼風」
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

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劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」
台本:ポール・クローデル
ネリー・ボルジョー、ミシェル・ファヴォリ(語り)他
チェコ・フィルハーモニー合唱団
キューン児童合唱団
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

セルジュ・ボド(指揮)

オネゲルの5曲の交響曲のうち、大戦中に書かれた第2番と第3番は、まさしく「戦争交響曲」と言ってよく、暗く重苦しい音楽は戦争の悲惨な現実と死者への慟哭を描き、いずれも最後は平和への希望と祈りに満ちた穏やかな音楽となって終わります。

「火刑台上のジャンヌ・ダルク」は、当初舞踊詩として構想されましたが、フランスに戦火が忍び寄る中、当時フランスを代表する詩人で優れた外交官でもあったポール・クローデルが台本を創り、古今のフランスの芸術を取り入れた語り、歌い、奏でる総合的な音楽劇に仕上げた大作で、結果的には戦火による荒廃からの復活と平和への祈りの「芸術のレジスタンス」を象徴する作品となりました。

これらの録音が、かつて同じようにナチス・ドイツに蹂躙され、破壊され、後に今度は北からの戦車に蹂躙されたチェコで成されたことは、オネゲルが作品に込めた平和への祈りが普遍的なものであることを象徴していると思います。

…合掌。
by borituba | 2017-03-10 23:59 | おんがく | Comments(0)

昨日に続き「その日」がやってきました。

1年前の「その日」のことは以前弊ブログにも書きました(カテゴリ「しんさい」をクリックするとご笑覧いただけます)。

それまで、不景気やら何やらありながらも平穏に過ごしてきたこの国は、人心も政治も産業もすべてが狂ってしまったかのようです。
わけても政治家の政争の種に成り果てさらに公僕の気概を忘れ省利の亡者に堕した官僚に食い物にされて一向に進まない救済と復興…芸能人やアスリートたちが懸命になっているのが気の毒にすら見えるほど、この国のかたちはおかしくなってしまったのでしょうか。レディー・ガガやシンディ・ローパーには本当に申し訳ない気持ちで一杯です。

私にとっても47年の人生でこれほど激震したこの一年はありません。父の死、入院、療養と仕事の両立…すべては「その日、3・11」から始まったのです。

そんな中、病院のベッドにいた私の許に来た一冊の文庫本。
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この本を知人が差し入れてくれたことに、単なる偶然以上のものを感じています。ちょうど7ヶ月目の10月11日に今回津波によって壊滅した三陸から茨城、房総のところを読んでいたということもありました。
そして退院後、私はもう一冊の文庫本を手にとることになります。
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原本と並行してこれを読むと、原本に書かれなかったもう一つの時の流れが見えてきます。「その日、その時」を境に一変してしまった風景と生活がこの二冊には記録として留められているのです。そしてこれがすべて一瞬で失われたのだということを忘れないためにも、折に触れてこの二冊を手にとることになるでしょう。

そして今。私はこの本を読んでいます。
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実はこの本が出たときにすでに購入していました。しかし、そのときは読む気が湧かず「最長片道~」を読了し、しばらくいろいろ気持ちに整理がついた段階で読もうと、枕元に置きっぱなしにしていたのです。
原さんは私と世代が近く、当然鉄道経歴も近いので、鉄道論客として非常に共感できるところが多いです。
まだ読んでいる途中ですが、震災を境にした日本の鉄道の在り様というものについて、とても示唆的な部分が多く、また、専門用語で煙に巻くようなごまかしがないのも好感が持てます。

というわけで、震災からちょうど一年の「その日」に読む本としてふさわしいと思ってここにご紹介する次第です。

by borituba | 2012-03-11 14:46 | しんさい | Comments(0)

明日であの震災から一年となります。

しかし、東京に住むものにとって、「3・11」の前の日「3・10」が「もうひとつの『その日』」であることを忘れてはなりません。

昭和20年3月10日…東京大空襲。

私は昭和39年、戦後19年目にこの世に生を受けました。今は家族はすべて彼岸の人になりましたが、私が物心ついた時点では父母、そして母方の祖父母との五人家族でした。そして戦後生まれは私一人だけでした。
祖父は明治、祖母は大正、父は昭和一桁、母は昭和10年…それぞれの時代に生まれ、それぞれ戦争を体験していました。
その日、東京にいたのは祖父母だけでした。父は海軍兵として高知に、母は集団疎開で信州飯田にいました。祖父母はすでに今わが家がある千川に住んでいましたが、祖母からその日、東の空がまるで夕焼け空のように紅蓮に染まり、B29の轟音が真上を飛んでいるかのように聞こえた…とつい昨日のことのように話してくれました。

初めて一人で迎える「3・10」。土曜日ということで、たまたま生き延びた家族の分も背負って、慰霊の祈りに行くことにしました。両国の東京都慰霊堂です。
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ここはもともと関東大震災の犠牲者、わけても今両国国技館と江戸東京博物館になっている陸軍被服廠跡で熱風のために犠牲となった人々の慰霊のために立てられたもので、大正世代のお年寄りで今でも「震災慰霊堂」と言う方が多いです。
その後、下町を中心に執拗に今の23区の大半を焼き尽くした空襲の犠牲者の慰霊も兼ねるようになり、名前も「東京都慰霊堂」となりました。
慰霊堂で震災と空襲の犠牲者の霊に手を合わせてから、横手にある「復興記念館」の展示を見学しました。
関東大震災と東京空襲の展示を見ているうち、これを見つけました。
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3・10ではありませんが、私の家のある豊島区西部は、現在地下鉄有楽町線・副都心線が通っている放射36号線の線まで空襲を受け焼け野原になりました。ただ、ミッションスクールである立教大学を避けたために立教大学とその周辺だけは焼け残ります。
そんな中、わが家のすぐ近くにこんな恐ろしいものが100本単位で降ってきたわけです。
3・10の特別展示として写真展をやっていました。
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その中で豊島区、そして鉄道がらみの写真がありました。
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都電荒川線新庚申塚あたり…このあたりには確かにこういう送電鉄塔と架線柱が残っています(現在上半分の送電線は撤去)。明治44年に建ったものもあったので、大震災どころか、空襲の業火にも耐えた鉄塔であったわけです。
このようにいろいろな感慨を胸に、腹ごしらえをかねて浅草へ。
観音さまの境内へ、これを見に行きました。
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観音堂の東側(御堂に向かって右)にある二天門。これは空襲によってすべて焼き尽くされた浅草寺の中で奇跡的に唯一焼け残った江戸時代の遺構です。観音堂の改修に合わせてお色直しされてきれいになっていますが、浅草寺の中で唯一重要文化財になっています。

しかし、戦後67年、日本に勝ったアメリカはアジア、特に中近東でやりたい放題の限りを尽くし、今もイランだイラクだアフガンだと言っては日本にしたのと同じことをしています。おかげでガソリンをはじめ石油製品の暴騰など「アメリカのわがまま」のために日本人が苦労とガマンを強いられるという理不尽な事態に陥っているのが哀しき現実です。そして、沖縄…

だから、ここに来て頭を下げてほしいのはアメリカと日本の為政者なのではないのかと、震災・空襲に耐え悲惨な光景をすべて見つめてきたこの小さな門を見上げながら思ったことです。

by borituba | 2012-03-10 22:45 | しんさい | Comments(0)

9月25日に緊急入場したときは、その時カバンに入っていた文庫本2冊しかなく、また細かい活字が読めずに無聊は極限に達していました。

そんな時、私の鉄道好きを知る友人が差し入れてくれたのが宮脇俊三著「最長片道切符の旅」(新潮文庫)でした。同い年の私の眼のことも考慮して虫メガネを添えて…

この本は、すでに当時の国鉄線全線完全乗車を達成していた著者が昭和53年(1978年)秋から初冬にかけて、国鉄路線の最長片道ルート(いわゆる「一筆書き」)を実際に切符を買って乗車するという、鉄道趣味の究極の醍醐味と言ってもいい旅の紀行です。

北海道の鉄道路線が大幅に整理されてしまったり(この本での起点である広尾線や全線で140kmも稼げた池北線も今はありません)、東北本線が新幹線の開通で在来線の盛岡以北が「私鉄」化されてしまったり、はたまた仁堀連絡船の廃止で四国に入れなくなったりと(宇高連絡線から瀬戸大橋に変わりましたが鉄道路線としては一方口であることは同じ)、現在ではこのルートはかなり様変わりしていますが、当時まだ全国津々浦々に延びていた国鉄の路線網をフル活用して日本列島を北から南へ縦断した「昭和の日本」の貴重な記録となっています。

この中で私が最初に感銘をうけたのは、
「時刻表は百年を越える日本鉄道史上に作り成された大交響曲である。」
という一文です。駅名と数字の単純な羅列にしか見えない時刻表ですが、それによって走る列車に想いを馳せるとき、そこには四季の移ろいや人々の暮らしまでが見えてきて、それが年々歳々の積み重なって「歴史」となる…まさに長大な交響曲として五感を刺激します。それはともすればどんなに良く書けた大河小説より面白く、まさに「事実は小説より奇なり」と言えるでしょう。

速読みが自慢だった私でしたが、虫メガネで一行づつ追いながらの読書なので、読み進むのに大変時間がかかります。一日数ページづつ、しかしじっくり噛みしめるように読んでいきました。

そして、10月11日。奇しくも大震災からちょうど7ヶ月を迎えた日、読み進んでいた「最長片道切符の旅」は第9日~第10日、横手から盛岡を経て水戸に至る、東北の太平洋側を縦断するルートにさしかかっていました。別に飛ばして読んだわけでもないのに…
盛岡からは、当時の鉄道本に必ずといっていいほど載っていた名物列車であった急行「そとやま」…盛岡から山田線・釜石線を回って花巻から東北本線を北上して盛岡に戻るという「循環急行」…の大部分に乗車したりしながら、宮古、釜石、気仙沼、石巻、仙台…と、今回の震災と津波で壊滅的に被災した街々を通っていきます。
宮脇さんが乗った路線の中には、三陸鉄道や気仙沼線、仙石線など現在もまだ復旧のメドすら立っていない路線も数多くあります。走る列車や車両は変われどそこには宮脇さんが描写したのとそれほど変わらぬ風景や人々の暮らしがあったのです。2011年3月11日の昼下がりまでは。
気仙沼では合間を縫って魚市場を見に行っています。また、朝の列車は高校生や通勤客でローカル線でありながら賑わっています。志津川付近では「城砦のような」と宮脇さんが表現した防潮堤がそびえています。
しかし今回の津波はそれをいとも簡単に乗り越え、街を、そして線路を呑みこんでしまいました。そして人々の命も心も想い出も一瞬にして押し流してしまったのです。

3月11日は、関西における1月17日とともに、多くの日本人の「命日」になったことです。そんなわけで「11日」はいわば「月命日」ということになります。そんな日に奇しくも病院のベッドの上で在りし日の東北の被災地の紀行を読むことになるとは…日頃あまりそんなことは思わない私ですが、なんだか因縁めいたことを思ったのは入場中ということだけではありますまい。

なお不思議なことに、宮脇さんは仙台から水戸に向かいますが、東北本線で一気に郡山まで南下し、磐越東線で平(現・いわき)に出て常磐線で水戸に入っています。「最長片道切符」ならではの回り道ですが、ちょうど福島第一原発の警戒区域にあたる区間をきれいに避けているのです。まるで今度の事故を予知していたかのように。実際今現在仙台からいわきに鉄道で行くのにはこのルートしかなく、そのあたりにもなんだか因縁を感じます。

そんなことを思いながら気が付くと、一日数ページがやっとだった読書が20ページ弱も読み進んでいました。その後はまたもとのペースに戻り、読了は10月21日。つまり出場前日だったのですから、この日だけ異常に「読めた」ことになります。

というわけで、こうして出場した今も、あの日読んだことが時々思い出されます。そして11月11日、12月11日…11日が来るたびに「最長片道切符の旅」を手にとっては読み返すことになるでしょう。あの日を思い起こしながら…

合掌。
by borituba | 2011-10-28 13:43 | しんさい | Comments(0)

東日本大震災から2か月が経ちました。

当日、首都圏の鉄道はマヒ状態となり、大量の「帰宅難民」が発生しました。それでも東急や京王など一部の路線は終電近くになって運転を始め、地下鉄も大半が復旧、終夜運転を行いました。
一方JRは首都圏の全線が終日不通になりました。

そこで問題になるのが京急です。京急は関東民鉄の中では比較的タフで、またこういう場合でも安全確認ができたところから順次折り返し運転を再開したりするのが常でした。しかし、結局3月11日の京急は終日不通状態に陥ってしまったのです。

では、なぜ…2か月経ったところで、検証してみたいと思います。

結論から言うと「JRが止まったから」というのがその最大の原因です。京急はその路線のほとんどすべてがJRと並行・競合しています。品川―横浜間は東海道本線とほぼ完全に並行、横浜-新逗子・京急久里浜間は根岸線・横須賀線と付かず離れず競合しています。
この状態で京浜間のJRがマヒしてしまうと、当然ながら動いていれば京急に全乗客が集中することになります。
震災当夜、運転を再開した地下鉄はしばしば乗客の集中で止まったり動いたりを繰り返しました。京急が仮にあの夜運転を再開していたら、さあ、どうなっていたでしょう。

ここに京急の弱点があります。京急はJRとの接続駅ではJR駅の脇にへばりつくようにホームがあります。品川・川崎・横浜・横須賀中央…不思議なことにターミナル駅ほど手狭で、途中駅はわりと広々としているのが京急の路線の特徴です。

品川や横浜の京急駅をご存知の方は想像してみてください。ここに東海道本線・横須賀線・京浜東北線の全乗客が集中したらどうなるか…答えはここでくだくだ書くまでもありませんね。

時々横須賀線や京浜東北線が止まったとき、品川や横浜が大混雑となり、ウィング号が運休になったり(臨時快特に変更される)、ダイヤが大幅に乱れたりします。一路線が止まってもこのありさまですから、全路線が止まった状態では却ってパニック状態になるのは火を見るより明らかでした。

事実、夜遅くなってから再開した東急東横線はラッシュ並みの混雑でした。綱島の鶴見川の鉄橋で見ていた限り、上りも下りもぎっしりだったのを今でも覚えています。

というわけで、京急は「動かしたくても動けなかった」状態で当夜の運転をすべて見合わせることになってしまったのです。
都市交通というのはたとえ並行路線が多くても、一社だけで独占できるものではなく、人の動態に合わせて各線がバランスよく乗客を運ぶことで成り立っています。まして京浜間のような首都圏交通の大動脈にあっては、たとえ一社だけ動けてもすべての輸送を賄うことは不可能です。

今回の震災で見えてきたのは、都市交通の災害対策を考える上で、各社の「収容力」というのものが今までファクターとして考えられていなかった。ということ。特に京浜間におけるJRと東急・京急との「シェア」のバランスをもっと議論すべきだということが言えるのではないかと思います。
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by borituba | 2011-05-12 22:59 | しんさい | Comments(4)

私は昼の仕業が終わり、会社の近くまで戻って食事に行く予定で車の中にいました。

会社まであと少しの谷原のアンダーパスまで来て、目白通りの陸橋をくぐる直前で信号待ちで停車していると、まずラジオが騒ぎ始めました。

「あ、今地震です。震度2…」

地震には慣れっこになっているので最初は「ああまたか」くらいの感覚でした。しかし…

箱型の軽トラなので、強風のときふわふわ揺れることがありますが、そんな感じが伝わってきました。アンダーパスの中で風の影響がないはずなので「おや?」と思った次の瞬間、ユサユサと大きく車が揺さぶられ始めました。

「でかいぞ!」と思い上を見ると、陸橋上の街路灯の柱が大きく揺れていました。座ってシートベルトをしているにもかかわらず体が浮き上がるような感覚で、外に放り出されるような恐怖を感じました。気がつくと体を丸めてハンドルにしがみついていました。

前は大型トラックでしたが、倒れるのではないかと思うほど左右に大きく揺れていました。

関東大震災を知る祖母から聞いてはいたものの、これほどの大きな揺れはわたしは46年生きてきて初めてです。「生きた心地がしない」とはまさにこのことでした。本当に怖かった。

とても長く感じましたが、ようやく揺れがおさまってきました。陸橋に異常はないようです。前の車が動き出したのでアンダーパスから脱出しました。

とりあえずすぐ近くのコンビニに飛び込んで弁当を買い、会社へ戻ると、会社ではバッテリーの在庫が転がったくらいでほとんど被害はなく、けが人もなし、比較的平穏でした。

このときは鉄道のマヒなどことの重大さは伝わってきていないので、食事を済ませたあと、そのまま夜の仕業へ行きました。

ラジオでは各地の被害状況や交通情報が伝わってきており、18時に会社を出てから瀬田最初の納品先まで3時間半かかりました。

途中甲州街道や国道246号の歩道は繁華街のように歩いて帰る人々でごったがえしていました。上りも下りも大渋滞です。

ラジオで第三京浜の開通が報じられたので、そちらを使っていつもと逆に回ります。

横浜市内は比較的平穏でしたが、それでもあちこちいつも空いているところが大渋滞になっていたりで、最後の、普段は最初の納品場所についたときは23時30分を回っていました。

最後の納品場所付近は停電しており、街灯も信号も消え、沿道の建物も真っ暗です。怖かった…

それから帰宅するまでとにかく遠かった。新二子橋を越えて都内に入るまで1時間半、環八から甲州街道に出るまで1時間、甲州街道の上りは比較的流れていて、多分大渋滞しているだろう環七を避けて笹塚から中野通りへ出たのが幸いしてそれからは比較的順調でしたがそれでも家にたどり着いたのは3時過ぎでした。

末筆ながら、今回の地震に遭われた全ての方々にお見舞いを、そしてなんとか無事に過ごすことが出来たことに感謝を、そして犠牲になった方々にお悔やみを申し上げます。

合掌。
by borituba | 2011-03-12 22:32 | しんさい | Comments(0)