特撮と鉄道(ゴジラ編)

昭和40年代に幼・少年期だった私は、ウルトラマンと仮面ライダーで育ちました。以来特撮は鉄道・落語と並んで私の三大趣味の一つになりました。さまざまな特撮作品を見てきましたが、鉄道との関わりもけっこうあります。

日本の特撮怪獣映画の草分けはご存知「ゴジラ」です。
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昭和29年(1954年)の初登場で東京を火の海にしたゴジラは、芝浦あたりに上陸して、品川駅構内で列車を破壊します。当時最新鋭だったEF58牽引の客車列車です。有名な客車を咥えたスチール写真があるのでご存知の方も多いでしょう。しかし、ゴジラの出現⇒上陸は予想されていて、避難命令も出ていたのですから、当然鉄道も止まっているはずなので、走っている列車がゴジラに襲われる…というのは少々おかしな話ですが、怪獣が文明の利器を破壊するというのは特撮映画の醍醐味でもあるので、最新の鉄道列車を破壊するのもその一つとして名シーンになっています。
品川駅を破壊したのですから、当然京急も被害を受けていたでしょう。
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2005.5.4 京浜急行電鉄本線品川-北品川間
ゴジラはその後、昭和37年(1962年)の第3作「キングコング対ゴジラ」で仙台に上陸して東北本線に沿って関東に接近したとき、東北本線の列車「急行つがる」を破壊しますが、使われている車両が東海道本線で「ビジネス特急」として走っていた151系でした。東北本線は当時全線電化されておらず、走っていたのはほとんど客車列車、わずかに「はつかり」に昭和35年(1960年)からキハ81系気動車が走っていましたが、まだ蒸気機関車が走っていた時代でした。では、なぜこんな「ウソ電」が発生したのでしょうか?
これには一つの裏話があります。当時特撮と並ぶ東宝の看板だった黒澤明監督作品、黒澤作品は撮影期間が長く、数で稼いでいた脇役や大部屋の役者にとっては拘束時間の長い黒澤作品だけでは生活が苦しくなります。そこで、山本嘉次郎門下の兄弟弟子で盟友、東宝特撮映画の大半でメガホンをとった本多猪四郎監督の作品に間合いに出ることで「数」を確保していました(黒澤と対照的に本多は比較的早撮りでした)。なので黒澤映画と特撮映画には主役以外のキャストに共通性が高く、特撮を研究すれば黒澤に、黒澤を研究すると特撮に行き着くのです。
そして、当時黒澤が撮っていたのが「天国と地獄」でした。誘拐事件を描いたこの作品で、身代金の受け渡しという重要なシーンで使われたのが特急「こだま」でした。国鉄の全面協力の下、脚本の設定通りの時刻に撮影用の臨時列車を走らせるなど今では考えられないような撮影となりました。
受け渡しなど走行中のシーン以外の撮影は田町電車区で留置された車両を使って行われましたが、ちょうど同時期に撮影されていた本多監督の「キングコング対ゴジラ」でも列車が使われることから、この撮影も同時に行われたのです。
このとき使用されたのが151系であったため、ゴジラが壊す車両も151系の模型となり、東北本線に本来ありえなかった「ビジネス特急」が走ることになったわけです。


その後、ゴジラは人間の味方に「転向」したことで鉄道の破壊はしなくなります。そのため、昭和39年(1964年)に開通した東海道新幹線は最先端の「夢の超特急」であったにもかかわらず、破壊されることはありませんでした。
ゴジラが新幹線を壊すのは開通から実に20年の昭和59年(1984年)まで待たねばなりませんでした。平成シリーズの幕開けである(製作は昭和ですが)「ゴジラ(1984)」は、誕生30周年の記念でしたが、ゴジラ映画としても原点回帰ということで、ゴジラは破壊神として都市を壊しまくる「災厄」としての存在に戻りました。
上陸したゴジラは有楽町で国鉄のガードを越えるときに新幹線の列車を踏み潰します。20年目の初遭遇でした。このときも第1作同様「なぜ新幹線は止まってなかったの?」という「穴」は残りましたが、やはり、大怪獣が列車を豪快に破壊するのは怪獣の怖さや強さが強烈に伝わるので「欠かせない」シーンだと思います。
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2006.7.11 東海道新幹線東京-品川間
by borituba | 2013-10-27 00:56 | てつどう | Comments(2)

イケイケでシクシク

昔、営業の仕事をしていたころ、鉄道で関東をあちこち移動していました。

一週間単位で交通費を請求していたのですが、当時はICカードもなく、いちいち切符を買っていたので、行程と運賃をきちんと記録しておかなければなりません。

そんなときよく使っていたのが「電略」というものでした。
「電略」とは、国鉄で使われていた鉄道電報で、駅名や役職、よく使う連絡内容などをカタカナで略して表記したものです。国鉄の場合濁点と撥音を用いないのが鉄則なので、特に駅名はカタカナ2文字ですべての駅を表記するためにさまざまな苦心のあとが伺えて興味深いです。

鉄道を趣味にしていると、この電略に自然となじみができるので、いちいち駅名を書きこむより便利でした。

駅名の電略は原則として重複しないようになっていますが、さすがに限界があるので、関東と関西など遠く離れたところについてはいくつか重複がみられます。わたしが使っていた関東圏内では隣接する旧鉄道管理局同士では重複しないのが鉄則だったために混乱しません。

地元の池袋は「イケ」と非常に単純です。その他よく使う駅はすぐ電略がでてきます。「新」のつく駅の場合は「シ○」となるのが原則なので新宿は「シク」、新大久保は「シオ」となります。
当時会社があった荻窪は単純に呼ぶなら「オキ」となるところですが、同じ中央本線の大月が「オキ」になっているので「おぎくぼ」をとって「クホ」になります。「大」のつく駅は「オ○」になることが多いので中央本線では大久保が「オホ」になります。
その他客先の最寄などなじみのある駅はすぐ憶えました。松戸は「マト」、柏は「カシ」、三鷹は高崎「タカ」との混同を避けるために「みつたか」と読ませて「ミツ」(鷹の字のつくりに「ツ」を書く略字からという説もあります)、津田沼はなぜか「ツタ」を横浜線の長津田にゆずって「ツヌ」、日暮里は「ニツ」、では西日暮里は?西日暮里は新しい駅なので「ニシ」も「ニホ」もすてに取られていて「ニリ」です。川越は川崎が「カワ」なので旧仮名遣いで「か」として「ハエ」になっているという苦肉の(?)電略です。

その他車両基地のある「鉄の聖地」はすぐ覚えました。尾久「オク」、新前橋「シマ」、田町「チタ」、豊田「トタ」、幕張「マリ」、国府津「コツ」…
こうした駅を通るたびにそこに憩う車両たちを見ては心ときめかせたあの頃…そのころ主役だった昭和の電車の多くが引退し、電略を目にするとなんとなく郷愁を覚えます。
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2005.10.20 武蔵野線西浦和駅
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2005.12.5 東海道本線川崎-横浜間(京浜東北線新子安駅)
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2007.12.1.26 中央本線高円寺駅
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2007.2.10 常磐線馬橋駅
え?私鉄の駅はどうしてたって?私鉄の駅の電略はわからないので、営業時代は自分の担当区域の駅を国鉄流を援用して適当につくってました。東上線朝霞は「アサ」、朝霞台は「アタ」、西武池袋線清瀬は「キヨ」、所沢は「トコ」、航空公園(所沢市役所の最寄)は「コエ」とか…ちなみに京急は幕の略称を使っているので電略化はしませんね。
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2009.2.7 東武鉄道東上本線朝霞台駅
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2009.4.9 西武鉄道池袋線江古田駅
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2006.8.29 京浜急行電鉄本線生麦駅
by borituba | 2013-05-18 22:46 | てつどう | Comments(1)

非鉄の知人と話をしていると、よく訊かれます。

電車についてる「クハ」とか「モハ」ってなんのこと?」

訊かれるたびになるべく丁寧に答えていますが、ここで整理しておくことにします。
電車についている記号は概ね「クハ」「モハ」「クモハ」「サハ」「サロ」の5種類です。一部の改造車両に「クモロ」とか「モロ」とかがありますが、首都圏や関西圏で普通に走っている車両はほぼこの5種類のどれかだと思っていいでしょう。

この記号は、電車の形式と座席の等級の2つに分けられます。
まず下の「ハ・ロ」が座席の等級を示します。これはかつての「一等・二等・三等」を示す「イ・ロ・ハ」がそのまま用いられています。現在は等級制は廃止されていますので「イ」をつけた現役の車両は存在しません。
等級制は廃止になりましたが、二等車はグリーン車という形で残りました。グリーン車の登場当初「特別二等車」と呼ばれていたのを憶えておられる方もおられるでしょう。現在、グリーン車の車両には二等車をあらわす「ロ」が付いています。寝台車両ではA寝台に「ロネ」という記号がつきます。
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2005.12.22 東海道本線東京駅
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2005.12.22 東海道本線東京駅
私たちが普段に乗っている通勤電車は「普通車」ということで、三等車を示す「ハ」になるわけです。

一方、上一文字乃至二文字は、車両の形式をあらわします。
「ク」は「制御車」で、制御装置=運転台を備えた車両という意味です。制御=駆動ということで「ク」なのです。
「モ」は「電動車」で、モーターを備えた車両という意味です。
「サ」は「付随車」で、制御装置もモーターも持たない車両です。英語で「随行」を意味するSubordinateがもとと言う説が有力ですが、諸説あるようです。
「クモ」は「制御電動車」で、制御装置とモーターの両方を備えた車両という意味です。
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2011.7.10 京葉線葛西臨海公園駅
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2012.2.4 西武鉄道池袋線中村橋駅
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2012.5.5 西武鉄道池袋線中村橋駅
もう一つ、私鉄独特の「デハ」というのがあります。「電車」を意味する「デ」ですが、私鉄の多くがこれを採用しています。しかし、なぜか「デハ」を車両に表記するケースはほとんどなく、車両番号のみの表示になっています。われらが京急初代1000形も、本名は「デハ1000形」です。
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2006.2.22 京浜急行電鉄本線品川-北品川間
私鉄の場合は、関東圏に限って言えば「デハ」派と「モハ」派に分かれます。しかも分布も非常にはっきりしていて、山手線の新宿と品川を境界線にして斜めに線を引くことができます。
すなわち、西武・東武・京成が「モハ派」、京王・小田急・東急・京急は「デハ派」です。実は往年の「大東急」が「デハ」の発祥ではないかと思われます。
現在の京成が「モハ派」というと意外に思われるかもしれませんが、都営線と乗り入れを始める前は地理的なつながりから言うと東部との関係が深く、車両も東武にならって「モハ派」です。
しかし、最近では「クハ」「モハ」「クモハ」を表示する車両は3社とも少なくなり、京成では3300形のみ、東武では8000系と9000系のトップ編成のみ(表示は車内の銘板のみ)、一番数多く残っている西武も車両の更新時に旧社章撤去とともに順次車両番号のみの表示に切り替えており、この表示が見られなくなるのもそんなに先の話ではなくなっています。
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2012.2.4 西武鉄道池袋線中村橋駅
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2012.2.26
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2012.2.26
「デハ」派は、京急のように付随車のみ2「サハ」を採用して、電動車と制御車は分けないところや、「元祖」東急のように一切合財「デハ」にしてしまうところもあり、各社によってバラバラです。
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2012.1.29 京浜急行電鉄本線大森海岸駅
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東京急行電鉄多摩川線沼部-鵜の木間
by borituba | 2012-07-31 22:39 | てつどう | Comments(3)

9月25日に緊急入場したときは、その時カバンに入っていた文庫本2冊しかなく、また細かい活字が読めずに無聊は極限に達していました。

そんな時、私の鉄道好きを知る友人が差し入れてくれたのが宮脇俊三著「最長片道切符の旅」(新潮文庫)でした。同い年の私の眼のことも考慮して虫メガネを添えて…

この本は、すでに当時の国鉄線全線完全乗車を達成していた著者が昭和53年(1978年)秋から初冬にかけて、国鉄路線の最長片道ルート(いわゆる「一筆書き」)を実際に切符を買って乗車するという、鉄道趣味の究極の醍醐味と言ってもいい旅の紀行です。

北海道の鉄道路線が大幅に整理されてしまったり(この本での起点である広尾線や全線で140kmも稼げた池北線も今はありません)、東北本線が新幹線の開通で在来線の盛岡以北が「私鉄」化されてしまったり、はたまた仁堀連絡船の廃止で四国に入れなくなったりと(宇高連絡線から瀬戸大橋に変わりましたが鉄道路線としては一方口であることは同じ)、現在ではこのルートはかなり様変わりしていますが、当時まだ全国津々浦々に延びていた国鉄の路線網をフル活用して日本列島を北から南へ縦断した「昭和の日本」の貴重な記録となっています。

この中で私が最初に感銘をうけたのは、
「時刻表は百年を越える日本鉄道史上に作り成された大交響曲である。」
という一文です。駅名と数字の単純な羅列にしか見えない時刻表ですが、それによって走る列車に想いを馳せるとき、そこには四季の移ろいや人々の暮らしまでが見えてきて、それが年々歳々の積み重なって「歴史」となる…まさに長大な交響曲として五感を刺激します。それはともすればどんなに良く書けた大河小説より面白く、まさに「事実は小説より奇なり」と言えるでしょう。

速読みが自慢だった私でしたが、虫メガネで一行づつ追いながらの読書なので、読み進むのに大変時間がかかります。一日数ページづつ、しかしじっくり噛みしめるように読んでいきました。

そして、10月11日。奇しくも大震災からちょうど7ヶ月を迎えた日、読み進んでいた「最長片道切符の旅」は第9日~第10日、横手から盛岡を経て水戸に至る、東北の太平洋側を縦断するルートにさしかかっていました。別に飛ばして読んだわけでもないのに…
盛岡からは、当時の鉄道本に必ずといっていいほど載っていた名物列車であった急行「そとやま」…盛岡から山田線・釜石線を回って花巻から東北本線を北上して盛岡に戻るという「循環急行」…の大部分に乗車したりしながら、宮古、釜石、気仙沼、石巻、仙台…と、今回の震災と津波で壊滅的に被災した街々を通っていきます。
宮脇さんが乗った路線の中には、三陸鉄道や気仙沼線、仙石線など現在もまだ復旧のメドすら立っていない路線も数多くあります。走る列車や車両は変われどそこには宮脇さんが描写したのとそれほど変わらぬ風景や人々の暮らしがあったのです。2011年3月11日の昼下がりまでは。
気仙沼では合間を縫って魚市場を見に行っています。また、朝の列車は高校生や通勤客でローカル線でありながら賑わっています。志津川付近では「城砦のような」と宮脇さんが表現した防潮堤がそびえています。
しかし今回の津波はそれをいとも簡単に乗り越え、街を、そして線路を呑みこんでしまいました。そして人々の命も心も想い出も一瞬にして押し流してしまったのです。

3月11日は、関西における1月17日とともに、多くの日本人の「命日」になったことです。そんなわけで「11日」はいわば「月命日」ということになります。そんな日に奇しくも病院のベッドの上で在りし日の東北の被災地の紀行を読むことになるとは…日頃あまりそんなことは思わない私ですが、なんだか因縁めいたことを思ったのは入場中ということだけではありますまい。

なお不思議なことに、宮脇さんは仙台から水戸に向かいますが、東北本線で一気に郡山まで南下し、磐越東線で平(現・いわき)に出て常磐線で水戸に入っています。「最長片道切符」ならではの回り道ですが、ちょうど福島第一原発の警戒区域にあたる区間をきれいに避けているのです。まるで今度の事故を予知していたかのように。実際今現在仙台からいわきに鉄道で行くのにはこのルートしかなく、そのあたりにもなんだか因縁を感じます。

そんなことを思いながら気が付くと、一日数ページがやっとだった読書が20ページ弱も読み進んでいました。その後はまたもとのペースに戻り、読了は10月21日。つまり出場前日だったのですから、この日だけ異常に「読めた」ことになります。

というわけで、こうして出場した今も、あの日読んだことが時々思い出されます。そして11月11日、12月11日…11日が来るたびに「最長片道切符の旅」を手にとっては読み返すことになるでしょう。あの日を思い起こしながら…

合掌。
by borituba | 2011-10-28 13:43 | しんさい | Comments(0)

7月25日に父を亡くしました。

前半は中学校の数学教師として、後半はエンジニアとしての仕事人生。卒業後は旧制中学時代に戦争によって中断したまま再開を夢見ていた弓道に余生を捧げた83年の生涯でした。
父からは人生において大事なことをみんな教わりました。
弊ブログのテーマである「鉄道」においても、記憶に残る初めての出会いにはほとんどそこに父の姿がありました。
私が物心ついたころ、父はエンジニアとして千住にある工場に勤めていました。休日に何か用事があるとき、幼い私を車に乗せて、工場に連れて行ってくれました。
工場は京成千住大橋駅から程近い、常磐線と京成線が直交しているあたりにあり、父の用事が済むまで、工場の裏の常磐線や工場前の突き当たりの築堤上を行き交う京成の電車を見ていました。
当時の主力は常磐線は103系と401系でしたが、幼い私の心を惹いたのは国鉄よりカラフルで軽快に走る京成の電車たちでした。200形・510形・2000形などの「青電」がまだまだ主役で、都営地下鉄乗り入れ対応車両の初代3000形以降の「赤電」はまだ増備の最中でした。当時の最新車両は私と同い年の3200形、そしてそのマイナーチェンジ車である3300形です。
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一度だけ電車で工場に連れて行ってくれたとき、千住大橋駅はまだ改装前でした。暗いガード下から駅に入ると、日光街道を跨ぐガードを今では考えられないような轟音をあげて通過する京成電車(当時通勤車両の優等列車は急行でした)の姿がとてもかっこよかったのを憶えています。
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工場からの帰り道、父は決まって寄り道して、当時の田端機関区の横を通ってくれました。私がたった一度だけ現役の蒸気機関車の姿を見たのもここでした。
時には上中里を通り越して王子まで行ってくれることもあり、栄町付近で尾久から来た東北本線が京浜東北線をくぐるあたりの踏切を通りました。踏切が閉まっていると何かしら列車が見られるので嬉しかったのを憶えています。
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のちに私の最大の「鉄の友」となった京急初代1000形。その華であった快速特急に乗った初めての記憶も父でした。
父が珍しく私を連れて出かけて、オープンしたばかりの水族館「油壺マリンパーク」に連れて行ってくれたときのこと。品川駅で、
「これは速いんだよ。品川を出ると川崎まで止まらないんだ。」
と言って乗ったのが初代1000形の快速特急だったのです。
当時はまだ行先幕がなく、ドアの横の小さな種別幕しかなかった時代で、多分誤乗防止のためでしょう、大きく「快速特急」と書かれたサボが入っていたのを憶えています。
先頭車に陣取って、八ツ山橋を最徐行で通過、北品川駅の構内で「カチッ」とノッチが入った瞬間「ギューン」という音とともに一気に加速…私がその後何度も楽しむことになる京急の醍醐味を初めて味わいました。
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父が連れて行ってくれたいろいろな場所…その中で乗った電車たちはすべて私の鉄道の原風景として記憶に残ることになりました。また、神田の交通博物館に連れて行ってくれたのも父。その時聞いた電車の科学の説明は今でも耳の底に残っています。

おとうさん、すばらしい出会いの思い出をありがとう。

合掌。

by borituba | 2011-07-28 22:06 | てつどう | Comments(4)

引退記念の201系グラフィティ、今日は御茶ノ水です。

御茶ノ水駅は、駿河台を切り裂くように深い谷になっている神田川に取り付くようにホームがあります。の中を行き来する201系オレンジヴァーミリオンがよく映えます。

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2007.3.30 中央本線御茶ノ水駅
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2006.3.31 中央本線御茶ノ水駅
東京を代表するアーチ橋である聖橋の向こうには、川面すれすれに地下鉄丸の内線の橋があります。上の201系、聖橋、下の地下鉄との「3点セット」はなかなか撮るのが難しかったですが、ワンチャンスを逃さず決めました。
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2007.1.26 中央本線御茶ノ水駅
御茶ノ水橋の向こう側で入ってくる201系をおさえました。架線柱が新しくなり、すっきりした画になりました。
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2007.1.26 中央本線御茶ノ水駅
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2007.1.26 中央本線御茶ノ水駅
聖橋のたもとに咲く見事な一本桜があります。201系地下鉄を絡めて。
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2006.3.31 中央本線御茶ノ水駅
初夏の夕暮れ、遠く秋葉原電気街のネオンが灯りはじめる頃中央特快がホームに入ってきました。聖橋の姿が水面にきれいに映りました。ここで撮った画の中で私が一番気に入っている一枚です。
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2006.5.21 中央本線御茶ノ水駅
by borituba | 2010-11-02 22:00 | てつどう | Comments(0)

先日、PCがご臨終した日に書こうと思っていた記事です。

2010年10月17日中央線から201系電車引退しました。先行試作車がデビューした1979年から31年の生涯でした。
私が201系に初遭遇したのは1981年の春高校2年のときでした。高校の鉄道研究会の友達「首都圏120円旅行(近郊区間の選択乗車制を使って最低区間の切符で関東一円を一筆書きで回る)」をやったとき、新宿から乗った中央線快速201系でした。量産車の増備が始まる直前だったため乗ったのは先行試作車で、試験的に導入されたスタンションポールが残っていました(のち撤去された)。
今回最後まで残ったH7編成は偶然2007年西八王子で撮っていました。
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2007.2.16 中央本線西八王子駅
西八王子では2005年秋から2006年初頭にかけて何度か撮っています。国鉄近郊区間には珍しい相対式ホームということで、201系同士の並びが撮れました。
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2005.10.13 中央本線西八王子駅
201系東京-高尾間の国電区間だけでなく、高尾から先の大月富士急行に乗り入れて河口湖まで足を伸ばしていました。大月ゆき西八王子駅に入ってきました。
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2005.10.13 中央本線西八王子駅
別の日ですが、大月ゆきと東京ゆき中央特快が並びました。
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2007.2.16 中央本線西八王子駅
最後に201系を撮ったのは今年2月西武線を撮った帰りがけに武蔵境で偶然遭遇したときでした。この段階で残り2編成でした。高架化相対式ホームになったおかげでちょうど下りに入ってきたE233系とのドンピシャの並びも撮れました。
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2010.2.14 中央本線武蔵境駅
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2010.2.14 中央本線武蔵境駅
by borituba | 2010-11-01 22:40 | てつどう | Comments(2)

ふと思いついての新子安10日にロケハン程度に撮ったあと、2日おいて4月13日に再訪しました。

新子安でのホントの狙い目は211系でした。
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2010.4.13 東海道本線(京浜東北線)新子安駅
211系1985年(昭和60年)デビュー。昭和最後の近郊型電車です。それまでの鋼製車両113系を大幅にモデルチェンジステンレスの車体に当時流行の「黒顔」を取り入れた前面で、電力回生ブレーキの使用のためには効率のよい抵抗制御ベースの界磁チョッパを採用するなど省エネ面に配慮した仕様になっており、当時の流行である「省エネ電車」の代表格でした。
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2010.4.13 東海道本線(京浜東北線)新子安駅
同じ省エネ車両でありながら、鋼製車両の201系は早々に引退してしまいましたが、211系劣化が少ないステンレス車体ということで、現在もE231系とともに主力として活躍中です。
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2010.4.13 東海道本線(京浜東北線)新子安駅
しかし、デビューから四半世紀に達して、東海道の主力を張るにはそろそろ先が見え始める頃、とにかく元気なうちに記録に留めておきたい車両になってきました。
一方こちらはいつまで活躍が見られるかそろそろ動向が気になり始めた185系です。デビューは211系よりさらに古い1981年(昭和56年)、来年にはデビュー30年になります。思えば私が高校生の頃から東京伊豆を走り続けていることになります。今では更新改造で大幅に居住性が改善されていますが、デビュー当初は特急から普通までの汎用車両として開発されたため、かつては「史上最低の特急車両」などと陰口をたたかれたものでしたが、よくがんばってきたものだと最近では妙にいとおしく思えます。
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2010.4.13 東海道本線(京浜東北線)新子安駅
by borituba | 2010-05-21 15:47 | てつどう | Comments(0)

今回の撮影行脚のシメは武蔵境駅中央線高架化してからは初めての訪問です。

高架化とともに主役201系からE233系に代わりました。新主役同士が並びます。
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2010.2.14 中央本線武蔵境駅
日曜日だったのでご同業者が4~5人いました。普段はこういうところでは撮らないんですが、せっかくなので撮ってみます。E233系快速が入ってきました。
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2010.2.14 中央本線武蔵境駅
新小金井で撮っていた頃からが広がって、武蔵境ではドン曇りになりましたが、なんとか撮れます。E257系特急「かいじ」がやってきました。シャッタースピードが落ちているためLEDのヘッドマークが切れずに決まります。
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2010.2.14 中央本線武蔵境駅
そろそろ撮了しようと思いましたが、ご同業者は減るどころか増えてきます。「これは」と思い待っていますと、やっぱり来ました。あと2編成を残すだけになったかつての主役201系です。
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2010.2.14 中央本線武蔵境駅
もう撮る機会はないと思っていた201系が思いがけなく撮れて喜んでいますと、下りE233系快速がやってきて201系とドンピシャに並びました。
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2010.2.14 中央本線武蔵境駅
最初から最後まで昭和の電車とともに過ごしたバレンタインデー、これにて撮了です。
by borituba | 2010-03-02 22:49 | てつどう | Comments(0)

EF65は、1970年代を目前にした昭和44(1969)年に大きなモデルチェンジを迎えました。客貨兼用の1000番台「PF形」のデビューです。
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2007.2.16 武蔵野線西浦和駅
すでにより強力な貨物用電機EF66がデビューしていましたが、電化の進捗でEF65も引き続き増備されました。結局基本タイプ(0番台)を超える139両が作られました。そのため、初期車と後期車とで細部に違いがあります。上の1038号機は、色もオリジナルの完全原型機の一つです。下は1041号機、こちらは前面の通風口がふさがれていますが、色はオリジナル。
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2007.2.1 武蔵野線西浦和駅
私が遭遇してカメラに収めたEF65PF形の中で一番若番の1004号機。塗装更新されてナンバープレートがブロックタイプに交換されているのが惜しいですが、形は原型をとどめています。
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2005.11.1 武蔵野線西浦和駅
by borituba | 2007-07-26 22:17 | てつどう | Comments(0)