中村歌右衛門は、五世、六世が東京の女形の最高峰として一世紀にわたり君臨したので、女形の家というイメージがありますが、四世(五世の祖父)までは立役で、しかも上方の役者でした。五世の父である四世芝翫が晩年江戸に移り、初めて成駒屋が江戸に定着しました。上方には四世芝翫の義弟で初代鴈治郎の父、中村翫雀が残ったことで、成駒屋の屋号は伝わっています。
五世歌右衛門は明治期の「演劇改良運動」の申し子として新歌舞伎の創造に協力、なかでも「桐一葉」「孤城落月」などで演じた淀君は生涯の当り役となり、成駒屋の新たな家の芸となりました。晩年は白粉による鉛毒で手足が不自由になりましたが、型に工夫を加え、淀君や八重垣姫などを演じ続け、昭和15年に75歳で亡くなりました。
五世には二人の男子がありました。長男は美貌の女形で五世福助となり、本名をとって「慶ちゃん福助」と親しまれましたが、昭和8年、33歳の若さでまだ5歳の長男(現芝翫)を残して早世してしまいました。
次男は兄の早世を受け、先天的な左足の障害を克服して女形芸に精進し、女房役者だった三世時蔵の代わりを求めていた初代吉右衛門の薫陶を受けて成長、終戦直後にその人気が爆発し、昭和26年、ついに六世歌右衛門を襲名しました。
紋は「祇園守」。成駒屋の元祖が上方である名残りです。
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2005.12.15 東京地下鉄銀座線田原町駅
by borituba | 2006-01-16 19:40 | おしばい | Comments(0)

歌舞伎の中には「ケレン」というジャンルがあります。「本水」と呼ばれる舞台上に水槽や滝を作っての立ち回りや、仕掛けを用いた「早替り」、そして舞台や客席の上空を飛び回る「宙乗り」といった舞台の機能をフル活用したエンターテインメント性の高い演出です。
現代の歌舞伎界における「ケレン」の第一人者が市川猿之助です。猿之助は明治の「演劇改良運動」に端を発する歌舞伎の高尚化に疑問を持ち、その過程で切り捨てられた演出-ケレンの復活や見取り狂言になって軽視されてしまった「世界」、すなわち歌舞伎狂言の基本的設定の再構成など、歌舞伎の革新と埋もれた傑作の復活を若手時代からほとんど単身で提唱し、実弟の現段四郎、子沢山がゆえに役が付かなかった三世時蔵系統の若手たちを集めての「猿之助奮闘公演」は、夏の歌舞伎座の名物として定着。ここで得たノウハウを生かしての「ニューディレクション歌舞伎」、そして歌舞伎とさまざまな芸能とのコラボレーションである「スーパーカブキ」と、その革新性と企画力は留まるところを知らぬパワーです。体調を崩し現在舞台には立っていませんが、一門(二十一世紀歌舞伎組:彼らは全員澤瀉屋なので、掛け声は屋号でなく「段治郎!」「笑也!」のように名前で掛けることになっています)を中心とした芝居のプロデュースなどは続いています。
その猿之助の祖父が二世市川猿之助です。明治期に活躍した初代猿之助の長男として生まれました。初代は七世團十郎の門弟でしたが、師の許可なしに「勧進帳」を上演して破門された経験を持つ風雲児で、澤瀉屋代々に伝わる「猛優」の家風を作りました。二世も長男の三世段四郎との「弥次喜多道中記」など大衆的な歌舞伎を次々発表する一方、古典の重厚な役も演じ、若手の芝居にも積極的に参加、後の六世歌右衛門などにも影響を与えました。また、新しい舞踊劇の創造にも熱心で、ロシアン・バレエのステップを取り入れた「黒塚」のような傑作を発表しました。戦後は長老として歌舞伎界の頂点に君臨。昭和38年に孫の團子に三世猿之助(現)を譲って隠居名「猿翁」を名乗りましたが、その名で舞台に立つことなく、長男三世段四郎と相前後して世を去りました。歌舞伎座で行なわれた三世猿之助襲名披露興行の口上に病院を抜け出して3日間だけ登場、孫の襲名を見届けての最期は語り草になっています。
紋は「三ツ猿」です。
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2005.12.15 東京地下鉄銀座線田原町駅
by borituba | 2006-01-15 11:17 | おしばい | Comments(0)

明治後期から昭和初期の上方歌舞伎で、初代鴈治郎と人気を二分した大看板が、十一世片岡仁左衛門です。
片岡家は、上方歌舞伎最古の名門として代々名優を輩出してきました。明治期に活躍した十世の弟(上方では、必ずしも子が名跡を継ぐことはなく、兄弟や有力な門弟が継ぐことは珍しくありません)であった十一世は、熊谷や盛綱など時代物の英雄から「廓文章」の伊左衛門のような上方和事の二枚目までこなす万能型の役者として活躍。晩年は「名工柿右衛門」のような老け役でも滋味あふれる演技を見せました。
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2005.12.15 東京地下鉄銀座線田原町駅
片岡家は出世名前として、「我當」と「我童」があり、この2つの名前が交互に「仁左衛門」を継いできました。銀座線の開通当時、十一世は健在でしたが、十一世の前名が我當だったため、後継に内定していたのは十二世我童(十世の子、十一世の甥)でした。
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2005.12.15 東京地下鉄銀座線田原町駅
当時から美貌の女形として人気を博し、昭和9年に十一世が没した後、十二世仁左衛門を襲名しました。しかし、終戦直後の昭和21年に、食糧難のなか食事の格差を妬んだ門弟に殺害されてしまいました。当時「食い物の恨みは恐ろしい」と話題になった事件でしたが、これで十一世の子四世我當ににわかに陽が当たり、十三世仁左衛門を襲名。父同様長寿を保ち、上方歌舞伎の継承に生涯をかけて尽力したのは記憶に新しいところ。十三世は子宝に恵まれ、現我當、現秀太郎、そして現十五世仁左衛門(十二世仁左衛門の子十三世我童に十四世を追贈)の三兄弟が健在で、松嶋屋の芸を継承しています。この三月には、三人が力を合わせて十三世の追善興行を行なうことが発表されました。
紋は仁左衛門が「七ツ割丸にニ引」、我童が「銀杏鶴」です。
by borituba | 2006-01-11 11:35 | おしばい | Comments(0)

上方歌舞伎の伝説的な名跡、坂田藤十郎が21世紀に蘇りました。3世中村鴈治郎が念願の襲名を果たし、先月の京都南座に続いて、今月は東京歌舞伎座で襲名披露興行が行なわれています。初代藤十郎は江戸の市川團十郎の「荒事」に対して、上方の「和事」を確立したもはや歴史上の人物ですが、1774(安永3)年に三世藤十郎が没してから絶えていました。
その藤十郎に匹敵すると言われたのが現藤十郎の祖父、初代中村鴈治郎です。4世中村歌右衛門の養子だった3世翫雀の子として1860(万延元)年に生まれました。この年は桜田門外の変が起こった幕末激動の真っ只中。その美貌は早くから絶賛され、昨日ご紹介した十五世羽左衛門同様、顔にシワを引くことなく生涯を送った「生涯花形」でした。関西川柳界の大御所、岸本水府は、初代鴈治郎一世一代の当たり役だった紙屋治兵衛の花道の出の素晴らしさをたたえて

頬 か む り の 中 に 日 本 一 の 顔

と詠んでいます。この一章に初代の全てが現れている名作で、大阪道頓堀、旧中座前に句碑が建っています。初代の次男が初代がやらなかった女形も能くし、兼ネル役者として活躍した2世。その長男がこの度襲名した現藤十郎。孫に現扇雀、翫雀の兄弟があり、長女は今テレビで大活躍の女優中村玉緒です。
紋は「四つイ菱」です。
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2005.12.15 東京地下鉄銀座線田原町駅
by borituba | 2006-01-10 13:57 | おしばい | Comments(0)

20世紀の歌舞伎で最もいい男は誰か、と問われればまず間違いなく第1位なのがこの十五世市村羽左衛門です。その美貌はもう「伝説」と言っても過言ではないでしょう。明治7年生まれの十五世は、その出生に謎が多く、フランス人との混血という説が生前から有名でした。その真偽はともかく、市村座の若太夫として生まれながら、19歳で父を亡くし、その後は叔父である五世菊五郎の薫陶を受けて成長。美貌の二枚目として「落人」「忠臣蔵・六段目」の勘平、「太功記十段目」の十次郎、「鎌倉三代記」の三浦之助、「本朝二十四孝・十種香」の勝頼、「與話情浮名横櫛」の与三郎、「先代萩」の勝元、「黒手組」の助六などなど、生涯顔にシワを書かず、白塗りの役のみを演じ通し、女房役者といわれた従兄弟の六世梅幸と共に大正から昭和初期の歌舞伎を席巻しました。雑司が谷墓地には二人の墓が並んで建てられています。
十五世の美貌は外国人にも影響を与え、ジャン・コクトーは十五世の与三郎を見て「パリジャンがいる。」と評した話が伝わっています。また、敗戦後、演目を制限されて存亡の危機に瀕した歌舞伎を救うために奔走したフォービアン・バワーズが、占領軍の将校として来日した時、開口一番「羽左衛門は元気か?」と聞いたエピソードはあまりにも有名です。バワーズが安否を尋ねた時、十五世は疎開先の長野ですでに亡くなっていました。71年の「花の生涯」でした。
紋は「根上がり橘」です。
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2005.12.15 東京メトロ銀座線田原町駅
by borituba | 2006-01-09 21:23 | おしばい | Comments(0)

「踊りの神様」と称された七代目坂東三津五郎の紋「三ツ大」です。本来「三ツ大」は、下が一つで上が二つ(画像と逆)なのだそうですが、末広がりで座りがいいことと、かつて石田三成の紋所だったことから、江戸時代以降はこちらの方が使われるようになりました。
日本舞踊の四大流派(藤間・坂東・西川・花柳)のうち、家元が役者と舞踊家を兼ねているのは藤間(家元は現松緑)と坂東がありますが、藤間は勘十郎(宗家)派と勘右衛門(家元)派に分かれて久しく、名跡が役者と一緒なのは坂東だけです。
「三津五郎」という名前は、三箇津(さんがのつ)、すなわち江戸、京都、大阪の三都で曽我五郎を踊ることを許された。ということが由来になっています。初世以来踊りの名手として代々が活躍し、大正から昭和前半にかけて活躍した七代目は、飄逸な芸風とすぐれた踊りの技術が持ち味で、同世代で同じく舞踊を得意とした六代目菊五郎と共に「棒しばり」に代表される楽しい舞踊劇を創造。また単独でも「喜撰」や「時雨西行」など雅趣あふれる舞踊(若い頃は「源太」などのきびきびした踊りも得意であった)が絶賛されました。現在、六代目の孫の現勘三郎と七代目の曾孫の現三津五郎(互いに同い年)が往年の名コンビの復活とたたえられています。
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2005.12.15 東京地下鉄銀座線田原町駅
by borituba | 2005-12-26 09:34 | おしばい | Comments(0)

山川静夫氏は著書の中で「七代目幸四郎がいなかったら、歌舞伎はどうなっていただろうか」と述べています。六代目菊五郎や初代吉右衛門が歌舞伎という芸のゴッドファーザーでありながら、子宝に必ずしも恵まれていたとはいえなかったのに対し、七代目幸四郎は偉大な後継者を3人も世に出し、世襲という国際的には非常に特殊な芸能である歌舞伎に偉大な足跡を残すことになりました。紋は「四ツ花菱」です。
九代目團十郎の門弟だった七代目幸四郎は、師匠の提唱した「演劇改良運動」の方針で門閥出身でないにもかかわらず異例の出世を果たしました。そこには血のにじむような努力がありましたが、初代吉右衛門とともに九代目の肚芸を受け継ぎ、重厚な英雄を得意にしました。一方で吉右衛門がやらなかった舞踊に無類の才能を示し、藤間流の家元「勘右衛門」の名跡を継承。「関扉」の関兵衛など舞踊劇でも活躍、中でも「勧進帳」の弁慶は六代目の義経、十五世羽左衛門の富樫と共に「三絶」と言われました。
七代目幸四郎には3人の男子が生まれました。長男は市川宗家の名跡を預かっていた五世市川三升の養子となり、市川海老蔵時代「海老さま」と称されて戦後第1次の歌舞伎全盛期を代表する役者になりました。養父に十世を追贈して十一世團十郎を襲名しましたが、数年で夭折してしまいました。一人息子が現團十郎、現海老蔵は孫になります。現海老蔵は、十一世を知る人たちから「おじいちゃんそっくり」と言われますが、十一世はもっとシャープで透き通るような美貌だったそうです。
次男は幸四郎の名跡を継ぎ(八代目)、父のレパートリーの中では重厚な英雄役を受け継ぎ、熊谷、盛綱、松王の三大首実検などを当たり役にしました。また、初代吉右衛門の女婿となり、さらに重厚な芸を身に着け、「級長役者」と言われました。また、歌舞伎の革新にも熱心で文楽座との共演などタブーを打ち破るチャレンジ精神は「夢の仲蔵」シリーズやミュージカルに挑戦する長男の現幸四郎、次男で岳父の養子となり、松貫四の名前で狂言の創作を行なっている現吉右衛門に、さらに舞踊公演のプロデュースや「阿修羅城の瞳」への出演など意欲的な現染五郎へと受け継がれています。
三男は六代目の門下生になり、二世松緑を襲名、3度の兵役など苦労をしましたが、父の時代物に加え、六代目の世話物を受け継ぎ、「髪結新三」「文七元結」などを得意にしました。また、父を早く失った現團十郎の後見人となり、十八番物を伝え、現我當など門下生も多数活躍しています。一人息子の初代辰之助(没後三世松緑を追贈)は陰影の濃い劇的な口跡で人気を集め、現菊五郎(菊之助)、現團十郎(新之助)と共に「昭和の三之助」と呼ばれた花形でしたが夭折し、孫の現松緑が逆に現團十郎や現菊五郎の薫陶を受けて現在活躍中です。また父の藤間勘右衛門を受け継ぎ、多くの舞踊家を育てました。勘右衛門の名は初代辰之助を経て現松緑に受け継がれています。
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2005.12.15 東京地下鉄銀座線田原町駅
by borituba | 2005-12-24 13:00 | おしばい | Comments(0)

田原町駅の紋章は、浅草行きホームには主に歌舞伎の立役、上野方面行きホームには女形と歌舞伎役者以外の邦楽関係・新派役者の紋、劇場の座紋が飾られています。その中で浅草行きホームに飾られている歌舞伎以外の紋があります。それが「新国劇」の祖である沢田正二郎です。この「柳に蛙」の紋は正式には劇団「新国劇」の座紋になります。
「新国劇」と言っても若い方にはなじみがないでしょう。明治以降、九代目團十郎が坪内逍遥や福地桜痴らと進めた「演劇改良運動」の中で、歌舞伎は国技(相撲)と同様に「国劇」と呼ばれるようになりました(今日でも大学の歌舞伎研究会が「国劇部」などと名乗っているのはその名残りです)。開成中学(旧制)から早稲田大学を出た当時としては非常にインテリだった沢田は、明治以後の壮士劇に影響を受け、歌舞伎より大衆的かつ文学の薫り高い演劇=新しい国劇=新国劇を創造し、当初は苦労しましたが、殺陣をよりリアルでスピーディーなものに洗練して一方の売り物とし、爆発的な人気を博しました。インテリ沢田が旧来の演劇を打ち破って新しい劇を作る間の苦悩や葛藤、周囲との確執は、名作「殺陣師段平」に描かれています。
その後、新国劇は「極付 国定忠治」や「月形半平太」、名座付作者長谷川伸を得ての「一本刀土俵入」(長谷川門下の池波正太郎も座付作家として活躍)、殺陣の様式美を集大成した「殺陣 田村」など傑作を次々に発表、沢田の後継者である辰巳柳太郎、島田正吾の二大巨頭の競い合いがさらに劇団を発展させました。しかし、二人に続く後継者が伸び悩んだことで劇団が衰退し、ついに解散しました。
座紋の「柳に蛙」は、小野東風の故事にちなみ、「常に努力を忘れぬように」との決意を示す沢田の魂の象徴です。
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2005.12.15 東京地下鉄銀座線田原町駅
by borituba | 2005-12-23 22:17 | おしばい | Comments(0)

六代目菊五郎の盟友にして最大のライバルが、初代中村吉右衛門です。
明治期に大阪から東京に移ってきた役者たちの中に、3世中村歌六という役者がいました。上方では花形だったのですが、老境に入って脇役や老け役を能くし、往年の技巧派の片鱗をみせました。
歌六には3人の男子がいました。3人とも役者に、そして一人は骨太の立役、一人は真女形、一人は技巧派の兼ネル役者と、3様の大看板に成長しました。それぞれ初代吉右衛門、三世中村時蔵(萬屋錦之助の父、現時蔵、現獅童の祖父)、十七世中村勘三郎。いずれも昭和を代表する名優です。
初代吉右衛門は、ほぼ同世代の六代目菊五郎と市村座の花形として競い合いました。世話物と踊りを売り物にした万能型の六代目に対し、踊りは全くやらず(歌舞伎の役者としては極めて珍しい)、時代物の英雄を本領としたのが初代吉右衛門でした。その芸風は重厚そのもので、九代目團十郎亡き後、團十郎の「肚芸」を受け継ぎ、「英雄役者」の名をほしいままにしたのです。盛綱、熊谷、松王、大星、光秀といった時代物の大役は勿論、九代目の「活歴」で数多く登場する加藤清正、世話物でも「髪結新三」の源七や「三人吉三」の土座衛門伝吉といった腹に一物ある役を得意とし、相手役の六代目との丁々発止の渡り合いは昭和前半期の歌舞伎の精髄として満都の喝采をあつめました。
その重厚な肚芸は、女婿の八世幸四郎を経て孫の現幸四郎、養子として直接の後継者となった現吉右衛門(こちらは踊りも能くし、「勧進帳」や「関扉」などで高く評価されています)に受け継がれています。
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2005.12.15 東京地下鉄銀座線田原町駅
by borituba | 2005-12-21 23:23 | おしばい | Comments(0)

市川團十郎と並ぶ江戸歌舞伎の2枚看板が尾上菊五郎です。
市川家が元禄以来の「江戸荒事」を売り物にしたのに対し、尾上家は江戸中期に出現した初代が生世話と呼ばれる当時の世情をリアルに表現した芝居で売り出し、以来江戸世話物を「家の芸」とし、世話物から派生した怪談物もそのレパートリーとしました。
ことに近代では立役、女形両方を得意とする「兼ネル役者」を多く輩出し、現七代目菊五郎も「兼ネル役者」です。「兼ネル役者」とは、手っ取り早く言えば「助六」と「揚巻」の両方が出来る役者と思っていただければいいでしょう。
現菊五郎の祖父にあたる六代目は、その父五代目が洗練した近代江戸(東京)歌舞伎を継承すると同時に、近代人の目で古典台本を読み直し、例えばそれまで「チャリ場」だとされていた「吃又」を、又平夫婦の情に焦点を当てた名狂言に仕立て直すなど歌舞伎を近代劇として完成させました。
六代目は、必ずしも恵まれていたとはいえない口跡や体型をその天才的な演技でカバーし、さまざまな名狂言を作り出し、「相方」と言ってもいい七代目三津五郎と共に松羽目物を中心とした楽しい舞踊劇や、「鏡獅子」に代表される神品とされる舞踊など、その子供世代が全て没し、孫や曾孫世代が花形として活躍している現在に至るまでその影響圏は大きく、「六代目」といえば菊五郎というほどになっています。
紋は「重ね扇に抱き柏」です。
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2005.12.15 東京地下鉄銀座線田原町駅
by borituba | 2005-12-20 14:59 | おしばい | Comments(0)