9月25日に緊急入場したときは、その時カバンに入っていた文庫本2冊しかなく、また細かい活字が読めずに無聊は極限に達していました。
そんな時、私の鉄道好きを知る友人が差し入れてくれたのが宮脇俊三著「最長片道切符の旅」(新潮文庫)でした。同い年の私の眼のことも考慮して虫メガネを添えて…
この本は、すでに当時の国鉄線全線完全乗車を達成していた著者が昭和53年(1978年)秋から初冬にかけて、国鉄路線の最長片道ルート(いわゆる「一筆書き」)を実際に切符を買って乗車するという、鉄道趣味の究極の醍醐味と言ってもいい旅の紀行です。
北海道の鉄道路線が大幅に整理されてしまったり(この本での起点である広尾線や全線で140kmも稼げた池北線も今はありません)、東北本線が新幹線の開通で在来線の盛岡以北が「私鉄」化されてしまったり、はたまた仁堀連絡船の廃止で四国に入れなくなったりと(宇高連絡線から瀬戸大橋に変わりましたが鉄道路線としては一方口であることは同じ)、現在ではこのルートはかなり様変わりしていますが、当時まだ全国津々浦々に延びていた国鉄の路線網をフル活用して日本列島を北から南へ縦断した「昭和の日本」の貴重な記録となっています。
この中で私が最初に感銘をうけたのは、
「時刻表は百年を越える日本鉄道史上に作り成された大交響曲である。」
という一文です。駅名と数字の単純な羅列にしか見えない時刻表ですが、それによって走る列車に想いを馳せるとき、そこには四季の移ろいや人々の暮らしまでが見えてきて、それが年々歳々の積み重なって「歴史」となる…まさに長大な交響曲として五感を刺激します。それはともすればどんなに良く書けた大河小説より面白く、まさに「事実は小説より奇なり」と言えるでしょう。
速読みが自慢だった私でしたが、虫メガネで一行づつ追いながらの読書なので、読み進むのに大変時間がかかります。一日数ページづつ、しかしじっくり噛みしめるように読んでいきました。
そして、10月11日。奇しくも大震災からちょうど7ヶ月を迎えた日、読み進んでいた「最長片道切符の旅」は第9日~第10日、横手から盛岡を経て水戸に至る、東北の太平洋側を縦断するルートにさしかかっていました。別に飛ばして読んだわけでもないのに…
盛岡からは、当時の鉄道本に必ずといっていいほど載っていた名物列車であった急行「そとやま」…盛岡から山田線・釜石線を回って花巻から東北本線を北上して盛岡に戻るという「循環急行」…の大部分に乗車したりしながら、宮古、釜石、気仙沼、石巻、仙台…と、今回の震災と津波で壊滅的に被災した街々を通っていきます。
宮脇さんが乗った路線の中には、三陸鉄道や気仙沼線、仙石線など現在もまだ復旧のメドすら立っていない路線も数多くあります。走る列車や車両は変われどそこには宮脇さんが描写したのとそれほど変わらぬ風景や人々の暮らしがあったのです。2011年3月11日の昼下がりまでは。
気仙沼では合間を縫って魚市場を見に行っています。また、朝の列車は高校生や通勤客でローカル線でありながら賑わっています。志津川付近では「城砦のような」と宮脇さんが表現した防潮堤がそびえています。
しかし今回の津波はそれをいとも簡単に乗り越え、街を、そして線路を呑みこんでしまいました。そして人々の命も心も想い出も一瞬にして押し流してしまったのです。
3月11日は、関西における1月17日とともに、多くの日本人の「命日」になったことです。そんなわけで「11日」はいわば「月命日」ということになります。そんな日に奇しくも病院のベッドの上で在りし日の東北の被災地の紀行を読むことになるとは…日頃あまりそんなことは思わない私ですが、なんだか因縁めいたことを思ったのは入場中ということだけではありますまい。
なお不思議なことに、宮脇さんは仙台から水戸に向かいますが、東北本線で一気に郡山まで南下し、磐越東線で平(現・いわき)に出て常磐線で水戸に入っています。「最長片道切符」ならではの回り道ですが、ちょうど福島第一原発の警戒区域にあたる区間をきれいに避けているのです。まるで今度の事故を予知していたかのように。実際今現在仙台からいわきに鉄道で行くのにはこのルートしかなく、そのあたりにもなんだか因縁を感じます。
そんなことを思いながら気が付くと、一日数ページがやっとだった読書が20ページ弱も読み進んでいました。その後はまたもとのペースに戻り、読了は10月21日。つまり出場前日だったのですから、この日だけ異常に「読めた」ことになります。
というわけで、こうして出場した今も、あの日読んだことが時々思い出されます。そして11月11日、12月11日…11日が来るたびに「最長片道切符の旅」を手にとっては読み返すことになるでしょう。あの日を思い起こしながら…
合掌。