今日の撮って出し!:もうひとつの「その日」

明日であの震災から一年となります。

しかし、東京に住むものにとって、「3・11」の前の日「3・10」が「もうひとつの『その日』」であることを忘れてはなりません。

昭和20年3月10日…東京大空襲。

私は昭和39年、戦後19年目にこの世に生を受けました。今は家族はすべて彼岸の人になりましたが、私が物心ついた時点では父母、そして母方の祖父母との五人家族でした。そして戦後生まれは私一人だけでした。
祖父は明治、祖母は大正、父は昭和一桁、母は昭和10年…それぞれの時代に生まれ、それぞれ戦争を体験していました。
その日、東京にいたのは祖父母だけでした。父は海軍兵として高知に、母は集団疎開で信州飯田にいました。祖父母はすでに今わが家がある千川に住んでいましたが、祖母からその日、東の空がまるで夕焼け空のように紅蓮に染まり、B29の轟音が真上を飛んでいるかのように聞こえた…とつい昨日のことのように話してくれました。

初めて一人で迎える「3・10」。土曜日ということで、たまたま生き延びた家族の分も背負って、慰霊の祈りに行くことにしました。両国の東京都慰霊堂です。
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ここはもともと関東大震災の犠牲者、わけても今両国国技館と江戸東京博物館になっている陸軍被服廠跡で熱風のために犠牲となった人々の慰霊のために立てられたもので、大正世代のお年寄りで今でも「震災慰霊堂」と言う方が多いです。
その後、下町を中心に執拗に今の23区の大半を焼き尽くした空襲の犠牲者の慰霊も兼ねるようになり、名前も「東京都慰霊堂」となりました。
慰霊堂で震災と空襲の犠牲者の霊に手を合わせてから、横手にある「復興記念館」の展示を見学しました。
関東大震災と東京空襲の展示を見ているうち、これを見つけました。
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3・10ではありませんが、私の家のある豊島区西部は、現在地下鉄有楽町線・副都心線が通っている放射36号線の線まで空襲を受け焼け野原になりました。ただ、ミッションスクールである立教大学を避けたために立教大学とその周辺だけは焼け残ります。
そんな中、わが家のすぐ近くにこんな恐ろしいものが100本単位で降ってきたわけです。
3・10の特別展示として写真展をやっていました。
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その中で豊島区、そして鉄道がらみの写真がありました。
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都電荒川線新庚申塚あたり…このあたりには確かにこういう送電鉄塔と架線柱が残っています(現在上半分の送電線は撤去)。明治44年に建ったものもあったので、大震災どころか、空襲の業火にも耐えた鉄塔であったわけです。
このようにいろいろな感慨を胸に、腹ごしらえをかねて浅草へ。
観音さまの境内へ、これを見に行きました。
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観音堂の東側(御堂に向かって右)にある二天門。これは空襲によってすべて焼き尽くされた浅草寺の中で奇跡的に唯一焼け残った江戸時代の遺構です。観音堂の改修に合わせてお色直しされてきれいになっていますが、浅草寺の中で唯一重要文化財になっています。

しかし、戦後67年、日本に勝ったアメリカはアジア、特に中近東でやりたい放題の限りを尽くし、今もイランだイラクだアフガンだと言っては日本にしたのと同じことをしています。おかげでガソリンをはじめ石油製品の暴騰など「アメリカのわがまま」のために日本人が苦労とガマンを強いられるという理不尽な事態に陥っているのが哀しき現実です。そして、沖縄…

だから、ここに来て頭を下げてほしいのはアメリカと日本の為政者なのではないのかと、震災・空襲に耐え悲惨な光景をすべて見つめてきたこの小さな門を見上げながら思ったことです。

by borituba | 2012-03-10 22:45 | しんさい | Comments(0)